〜摂理人だって人間だ〜の巻

 

さて、「私は摂理人である」

この前提をはっきりさせておかなければ話が前に進まない。

自分で言うのもなんだが、私はあまり摂理人っぽくない日常の言動が目立つらしい。

 

故に私のような者がこう声を高らかに宣誓すると、標準形化された摂理人通称「セツリチャン」の中には眉間にしわを寄せ、「全能なる三位の神よ、どうかあの破廉恥漢に御心ならば神の裁きの雷を」と切に祈る者たちも密かにいるのではないかと睨んでいる。

 

が、現実私はなんだかんだこうして信仰の破船に会うこともなく、十六年の歳月を生き抜いてきた。もう十六年である。

私の様な者が信仰を守り通してこれたのは、ひとえに神の恩寵であろうか、それとも中には変なのが少し紛れ込んでいたほうがなんだか面白そうだという三位のちゃめっけ溢れるコレクター精神の賜物であろうか。たえなる神の愛に感謝するしかない。

 

そもそも、私のようなアメニモマケルカゼニモマケルデクノボウの様な人間にこそ神の救いの御手が必要なのだ。

 

果たして、何が罪であり、裁きの対象であるかは人間の主観で判断してはならないのだ。ただ我々に出来るのは事実を正確に神に上奏し、全能者の判断に委ねるのみである。一度告げたら綺麗さっぱり忘れて、庭のオリーブの木の手入れにでも精を出すのが正しい摂理人のあり方ではなかろうか。

 

下手をするとその祈りは自分に帰ってくる。

 

こういうのをあれだ、古き諺で「逃げるは恥だが役に立つ」というのであったろうか?否、「人を呪わば穴二つ」か。まあ、大意は似たようなものであろうて。

 

 

十六年という歳月、ヤギ年齢に換算して人間で言う百歳近く。薬で幼児退行させられた少年探偵が元の年齢を超えてしまう時間。アンパンを顔に据えたサクリファイス(自己犠牲)精神満載のヒーロー劇画の登場キャラ、赤ちゃんマンが「もう赤ちゃんじゃないマン」に成長する期間。さしずめ「思春期マン」もしくは「第二次成長期マン」と呼ぶのがふさわしいだろうか。こうなると民放よりむしろNHKにでてきそうな存在ですらある。

 

 

そして、そんな私だからこそ、今の世の中に敷衍する「摂理人」である、というだけで非人道的な扱いをうける現状に牙の一つも突き立てたいと思いこうして筆をとっている次第である。

 

この現状、全くもって憤懣遣る方無い。言い換えるならば、回転寿司で乾坤の思いで職人にお願いしたエンガワ握りが、無情にも上流に座る心無い若者に、面白半分に横取りされた時のあの憤りに似ているだろうか。

 

不倶戴天、悪鬼の所業。Youtubeなばら炎上必死。こんな輩は生まれ変わって来世で、良くてもカピカピに干からび、誰の口にも運ばれず一生を終える、哀れなネギトロにしかなれない。ちなみに摂理では生まれ変わり、来世はないとされている。

 

さらに悪い事にその心無き若者の注文を見ていると、サーモン、ランチ限定トロ、アボガドエビといったいかにも味の濃いネタばかりを攻めている。寿司の組立などまるで知らないD級戦闘員の様な食べっぷり。

 

彼にとってのトロとサーモンの合間にアクセント的につまむエンガワと、序盤から構成を組たて、必殺のタイミングで頼んだ私にとってのエンガワの価値はまるで異なるのだ。この気持ちを誰が汲み取ってくれるだろうか。

 

 

さて、話がそれたが、とにかく、私は摂理の誤解を解きたい。多くのメディアと、世を古くから影で支配するあの、古き蛇に連なる郎党どもの策謀により、摂理のイメージは決して良いとは言えない現状である。

 

我々も通常の人のように働き、喰い、ねむり、人を愛し、自己の矛盾に苦しみながらも生の真実を探し求める無力な一介の人間に過ぎないのである。少し違うのは、そこに、信仰と、神への愛、未来への核心、そして大量のオリーブオイルが添えてあるだけに過ぎない。平成狸合戦ポンポンポコ風にいうなら「摂理人だって生きている」のだ。

 

世に、このような人間を見かけたら実はその人間は摂理人かもしれない。しかしその時は決して騒ぎ立てず暖かな目で見守って欲しい。

 

  • 年末の場末の定食屋で、懐かしの歌謡曲釜山港へ帰れ」が流れると、ついスープをすすっていた蓮華の手を止めて聞き入ってしまう。

 

  • 夏でもないのに団体で川原にて、動物などに似た形状の石、通称「形象石」を楽しそうに探している。

 

  • 染みチョココーンをみると我を失う

 

  • 夏場、炭酸飲料を前にしてやたらと逡巡する。

 

  • 麻雀でやたら平和(ピンフ)ばかり狙ってくる。付け加えるなら大三元を上がった時「聖三位」と役名を間違ってしまうなら、その時点で確定していい。

 

(しかし、摂理内では公式にギャンブルはギルティのひとつに数えられており、彼の者は重篤なるなる規律違反を犯していることになる。もし見かけたら直ちにこのブログを通して私に連絡をして欲しい。彼の魂を取り戻すために、罪深き肉体を神田川に七回沈め、禊を行わなければならない。ヨルダン川に身を浸したナアマン将軍のように・・・)

 

 

  • 満員電車にて、空気をよまずに聖書を読みふける

 

 

・・・どうであろう、普段何気なく繰り返される日常の風景の中に、実はこれらの現象が埋没していなかっただろうか。

まるで、髭を毛抜きで抜く物たちが最終的にたどりく終末。肥大化した毛穴が皮膚組織に覆われ、角質層下において髭が渦を巻き始めてしまう、あの恐ろしい「埋没毛」現象のように。

 

 

このようにして、摂理人はどこにでも存在し、そして圧倒的なまでの善良さで、この心苦しい世の中にあって義と善を貫こうとし、苦悶しながらもあゆみ続けるのだ。

 

最後にもうひとつだけ摂理人の特徴をあげて今回は終わりにしたい。

それは、明け方を非常に大切にするということだ。

 

明け方こそがもっとも神霊な時間、神と祈りをもって疎通する時間とし、世間の人々が引くくらい早い時間から祈りの姿勢を整える。自己のため、家族のため、十字架を背負い続ける主のため、世界の為。

 

摂理人のこうした毎朝の祈りが、世界の均衡をかろうじて支え、神が怒りの酒槽を踏むことをためらわせているのだと私は確信している。

 

よって、夜はなるべく早く寝るようにし、非常に健全健康的な生活をおくるようになる。のだが、時には明け方を寝坊して黄金の様な時間を無為に過ごしてしまうこともある。

 

何故か、金曜ロードショージブリ作品を放映する時などはどうしても明け方を寝過ごしてしまう人たちの割合が多くなるのだ。もちろん、摂理内で人気のある作品は「平成狸合戦ぽんぽこ

明け方の祈りの数とこの辺の因果関係はまだはっきり解明されていない。全くもって不思議である。

 

実は今、一つ、危惧していることがある。この文章に少しでも真実の香りを嗅ぐ者は急いで伝えて欲しい。

恐らく今年の夏、災いがおこる可能性が高い。未来はまだ決まっていない。夏休みにあわせて地上波初放映されるであろう「君の名は」。その時にも明け方の祈りの絶対数が減少する事が予想される。祈りによって保たれていた現世の均衡が、もし崩れたとしたら・・・・

その日は近いかもしれない。そして「君の名は」は「君の罠」となるのだ。

知恵ある者は高い山に逃れよ。決して振り返ってはならない。

 

 

これは、私の目から見た摂理のひとつの、主観に満ちた側面に過ぎない。しかし世の人々に摂理の多様性を知ってもらえたならと思い今後も筆を取り続ける次第である。