摂理人、ぺヤングとの葛藤に勝利した〜前編〜

 

いつ、いかなる時も摂理人は、世に対し証を立てなければならない。言行一致、色即是空、諸行無常。南無。

 

我々の存在そのものが世の光となり希望となり、既得権益に対する脅威とならなければならないのだ。いかに真理をもって人々を啓蒙して回ったとしても、そこに見合っただけの愛と行い、そして鍛え上げられた筋肉が伴わないならば、それはやかましいだけのにょう鉢(シンバル)である。

 

絶えず柔和・寛容・謙遜であれ、言葉よりも実践を、隣人を愛せよ、隣人のピッツァをつまみ食いしてはならない。

真冬でもタンクトップ。カサつく肌に塗るのはオリーブオイルのみ。

ラーメン二郎はスープまで飲み干すべきである。ただし、三日に一度程度が体の為にも望ましい。貪ってはならない。

世の富と権力に固執してはならない。権利を主張してはならない。コンビニで立ち読みしたらせめて菓子パンくらい買っていけ。己を誇ってはならない。矜持とすべきはただ一つ、主の真理と鍛え上げられた己の肉体のみ。

 

 

神の徒であるにふさわしき自己を保持するため、常に己の中に枷をはめ、欲望を制限し高き志を抱き続ける。

水滴が瞬時に蒸発してしまう程に熱を持ち、張り詰め、パンプアップした筋肉とカバンの中に常に鮮度高いオリーブオイルを忍ばせ続ける忍耐の日々の連続が、摂理人を摂理人たらしめているのだ。

 

 

人は環境に左右されやすい。私が居を構える悪徳あふれる大淫婦・バビロンの様な町、高田馬バビロンにおいて斯様な節制の日々を続けることは、決して容易くは無い事をどうか理解して欲しい。なにせ、愛と正義を唄ったシェーキーズは閉店を余儀なくされ、BOOKOFF(ブックオフ・略称ブッコフ)は単行本にカバーを掛ざるをえなくなってしまった町なのだ。

 

ちなみに、高田馬場BOOKOFF(略称ブッコフ)は私の知る限り関東最古のBOOKOFF(略称ブッコフ)である。もっとも私の関東に置ける行動範囲は新宿~池袋~上野の三箇所にほぼ限定されるのだが。狭くはない。無知と罪が、魂を狭き牢獄に閉じ込めるのならば、我々はなんと自由な存在であろうか。

 

清潔な米、・鮮魚・混ぜ物のないオリーブオイル・ダンベル・焼きたてのピッツァと鼻炎薬も忘れてはならない。ETC・・・・

それら信仰に必要な日々の糧はおよそこの三箇所で過不足なく手に入る。それ以上を求めるなら既に度を越してしまっている事を知るべきである。

 

前置きが少し長くなってしまったが、摂理人がいかに肉の欲求と戦いながら日々を過ごしているのか、を皆に知ってもらいたくこの文をしたためている。

 

摂理人というと、世の人々から見ると真面目過ぎていささかが面白みに欠ける、という誤ったレッテルを貼られていると感じることが少なくない。

 

そうではないのだ。もちろん、精錬潔白、天国に迎え入れられる事を願い、日々完全であろうと努力はするのだが、過去の肉性、罪の誘惑と日々戦い、壮絶な葛藤の中に常に身を晒している。完全に世間的快楽に対する渇望を精神から浄化することが出来るなら、小学生の時から貯め続けた5000ガバスだろうとも惜しまず捧げるだろう。

 

肉の渇望に勝利することもある。敗北を喫することもある。その日の体調、精神状態にも左右される。8勝7敗で、今場所なんとか勝ち越すなら来場所は天国の命の書において番付が上がっている。その辺はまあ、相撲のようなものなのだ。もちろんこれはイメージの話であって霊的世界において悪魔と相撲をとっているわけではない

 

 

わかりやすい例を上げると、人間の三大欲求である、食う、寝る、遊ぶ。この要素をいかに收めるかにある意味全てがかかっているといっても過言ではなかろうて。

 

鶏も眠っている明け方から、切なる祈りを持って一日を始めるなら当然日中眠くなる。

 

夏場、薄着で街を闊歩する淑女を見れば、ついつい目で追ってしまう。はっと目を覚まし、両のこぶしを血が滴るほどに握り締め、誘惑に耐える。出来ることなら彼女ら全てにフルプレートアーマー着せてしまいたいくらいである。

 

食べ過ぎれば眠くなる。健康にも悪い、祈りも浅くなる。何より、添加物と真っ白に精製された砂糖、穀類で溢れかえる現在の食糧事情が、人間の精神にいかなる悪影響を与えるのか、徐々に明るみに出始めた昨今である。そして、美味しい物程体に悪いというこの現代社会の悪魔の諸行。

 

 

スーパーに行く時も、なるべくならば季節の、安全が保証された、できるだけ近場で採れた野菜と魚、雑穀と日本古来から伝わる発酵食品を持って少食、粗食で済ませたい物である。が、しかし気がつくとお菓子コーナーに立っている事が少なくない。まるで篝火に群がり自ら焼かれてしまう蛾の如しである。

 

いかにも甘く、脳髄が蕩けそうなデザインで包装されたお菓子の数々。夢の欠片か、楽園の残滓か。

 

そしてひときわ輝く、摂理人がこよなく愛するお菓子「ル・マンド」

~一説によると、漢字で「流・満土」と書くこのお菓子。ルーツは己の土地を持ち得なかった流浪のユダヤ民族が、いつか自分たちの土地で満たされる願いを込めて焼き続けたお菓子だという~(民明書房「荒野と漂流と」より)

 

いかにも、あのほとばしる甘さの後に来る、あまりにも儚く崩れるあの食感。幾重にも積み重ねられた天女の羽衣の様な薄いクレープ層は、積み上げられた歴史と安定、平和の脆さを表しているのだろうか。

 

ル・マンドの個包装をはがす時、まるで赤子を抱くかのように繊細に開封しなければ、クレープ層が砕け散り大変な事になってしまう。安定と平和。まるで当たり前のように貪っているこの幸福がいかにアンバランスな上に、神の御手に守られ成立していることを思わずにはいられない。たえなる神の愛にカムサ・ハムニダ

 

簡単にルマンドと流して発音されることも多いが、ここは敬意を評してきちんと「ル・マンド」と発音するべきである。返事はイエスかハイしか認めない。

それでもいっときの甘い幻想に癒される事は、神の恩寵と愛によって己を満たすべき信仰人にとっては否定するべき事なのだ。ここはル・マンドに手を伸ばす訳にはいかない。鋼鉄の自制心を持ってお菓子コーナーを、鉛のような足を一歩一歩踏みしめ、抜けていく。能面の様な無表情の裏では、その僅か数mの通路の床一面が、ルマンドが茨の様に敷き詰められた光景を幻視する。

この茨道を血涙を流し、踏み砕きながら前進していくのだ。ガラスの様なルマンドの破片は、裸足の足の肉をいとも容易く抉っていく。なぜこうまでして神の愛に挑戦しなければならないのか。時に自分が不憫でさえある。それでも。

 

そして必死の思いでその数mを超えた先に、さらに大きな試練が義人を待ち受ける。その煉獄の名はペ・ヤング。

二度目の勝利がいかに困難であるかを、知っているだろうか。多くの偉人が一度の困難には耐え抜き、最後の栄光の手前の試練によって心を屈してしまうのが人類史上数え切れない程あった。

 

このペ・ヤングとの信仰的激闘の様を今回は記したかったのだけれど紙面の関係上次回に回そうと思う。

はたして、モーセが最初の石版をくだいたようにいっそ、この白く四角い物体を石に叩きつけてしまえたらどれほど楽であっただろうか・・・・